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難聴亭日乗

つれづれなるままに その日ぐらし

廣川奈々聖と「時間」

 

「今こそ醉ふべきの時なれ! 虐げらるる奴隷となつて、時間の手中に墮ちざるために、酒によつて、詩によつて、はた德によつて、そは汝の好むがままに、醉へ、絶えず汝を醉はしめてあれ!」

近代詩の父とも評されるフランスの詩人シャルル・ボードレールが、彼の散文詩にこう書いている。(上に引用したのは『醉へ(Enivrez-vous)』三好達治訳)

 

彼は「時間(le Temps)」について非常に敏感であった。彼にとって時間とは何者だったのか。代表作『惡の華(Les Fleurs du Mal)』から『仇敵(L'Ennemi)』という詩を引く。

 

──苦しや! 苦しや! 時は生命を啖ひ、

この見えざる仇敵はわれらが心を蝕みて、

得々と生血を啜り肥りはびこる!(村上菊一郎訳)

 

時間とは命を食らう敵なのである。じりじりと迫りくるこの仇敵に心は蝕まれる。そして、どれだけ恐れ抗おうとも、やがてはすっかり呑み込まれてしまう。だれもが考えたことのあるだろう漠然たる恐怖を、詩人は詩人たる鋭い感性をもって描き出す。

「現在、世界のあらゆる言語で書かれる抒情詩に於いて、多くは間接であらうが時には直接に、ボオドレールの影響を受けてゐない詩歌は無いと言つても、過言ではない(鈴木信太郎)」とまで称される重要偉大な詩人ボードレールだが、いざ読んでみるとかなり人間臭いところがあり、身近に感じられる。

 

殊に私はこういう人物に惹かれるらしい。敬愛する萩原朔太郎然り。そして、近頃では廣川奈々聖からも同じ魅力を感じている。

先日の定期ライブわ-4から、ずっと廣川について考えていた。私はあのライブで、彼女から溢れ出る詩情(poésie)を感じた。

詩情というものについて、ボードレールが『浪漫派藝術』で「ポエジーの原理とは、厳密にまた単純に、ただ高度な美への人間の憧れにほかならず、この原理の顕現は、魂の熱狂と恍惚のうちにある」と語っている。

高度な美への憧れ。ちょうどライブの数日前に廣川が送ってきたメールが思い出される。自分が思っているよりも高い「理想」について書かれたものだ。この理想はどうしようもないものだけど、「本気」で挑みたいのだと。この「本気」は魂の「熱狂」、そして抒情的な彼女の歌声は「恍惚」にそれぞれ当てはめられる。

 

抒情的。以前彼女はブログで『ちいさな ちいさな』について、「その時の空の色とか こころの変化とか 流れる空気とか その時のものすべてが表れる曲」だと書いている。これはまさに抒情的な表現方法だ。

パフォーマンスに限らず、アイドルとしてもその抒情性は見られる。ツイッターやブログにはあまり書かないが、メールではあれやこれやの感情をよく披瀝している。

 

女性アイドルの旬は短い。これを元来のアイドル好きである彼女は痛いほどよく知っている。意識しているのかいまいか、その焦燥を感じさせる文章は少なくない。「時間」は容赦なく彼女にも牙をむく。

 

L'Art est long et le Temps est court.「藝術は永く時は短し」これはなんと残酷な言葉だろう。『不運(Le Guignon)』という、忘れられた詩人エドガー・アラン・ポオについて詠った詩の中で使われている。

ポオに多大な影響を受けたボードレールは、この異国の不運な詩人に自らの運命を見ただろう。あのポオでさえ、藝術に置き去られ、暗黒と忘却の中に埋められてしまったのだ。いかなる薫香を放てども、もはや鶴嘴も届かざる奥深き寂寞の中に!

藝術と共に在る、僅かな、限られた人生を「時間」は容赦なく食い殺す。酔いはいつか醒めるのだ。

 

この漠然たる不安、いかにせんという苦悩、そうした内面をどう照らし出すべきか。

わが朔太郎は言う。「どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思つたら、それは容易のわざではない。この場合には、言葉は何の役にもたたない。そこには音樂と詩があるばかりである」

彼女の歌声を聴くこと。彼女の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉では表現できない感情をしっかりと感じること。そこに「美」がある。

 

天國より來るとも、地獄より來るとも、そは問はじ、

おお、美よ! 巨大なる、恐ろしき、率直なる怪物よ!

ただ汝が眼、汝が微笑、汝が足が、わが愛する

まだ知らざる無窮の門をわがために開くならば。

 

惡魔か神の使なるともそは問はじ。天使はた海魔(Sirène)なるとも

そは問はじ、 ──天鵞絨の眼の妖精よ、

韻律よ、聲よ、光茫よ、おお、わが唯一の女王よ!──

汝ただ全世界の穢れを減じ、時の重みを減ずるならば。(村上訳『美への讃歌(Hymne à la Beauté)』)

 

廣川奈々聖の美を見出すのは容易のことかも知れぬ。私のごとき無知蒙昧の徒でも、軟弱ながらそれなりの自論を広げることができる。この点はボードレール萩原朔太郎にも、やはり共通する。であるから多くに愛され研究されてきた。そう、表面的には何ら難解ではない彼らなのである。

しかし、彼らはその内奥の果てしなさにこそ難解さを持っている。ひとたび本気で理解しようと思ったなら、もう後戻りはできない。それが天より来たるか、はた奈落の底より来たるか、いづれにせよ、どこまでもどこまでも進んでいくしかない。

「巨大なる、恐ろしき、率直なる怪物(monstre énorme, effrayant, ingénu)」ここでの ingénu は率直と訳されているが、齋藤磯雄訳では「あどけなき」、鈴木信太郎訳では「清浄無垢」とそれぞれ訳されている。

そう、この「美」が天使のように純粋無垢であっても、セイレーンのように人を破滅に導こうとも、すべては問題でない。それがわれわれに「まだ知らざる無窮の門」を開くものであり、「時の重みを減ずる」ものであるなら。

 

彼女が美しく歌い踊るとき、われわれは時を忘れる。彼女が永遠となるのはその瞬間に限ってのみだ。あらゆるものは終に死ななければならない。「藝術家とは死を創る故に僅かに生を許されたものである」と小林秀雄は言った。「刹那が各人の秘密を抱いて永遠なる所以である」と。

 

 

この拙文はわが幼稚なる考のまだ発端である。廣川奈々聖にしてもボードレールにしても理解が不十分で、そこかしこ牽強付会の感が否めないのは容赦いただきたい。

この考はここから進展するとも抛棄するとも知れぬものであるが、とにかく考えていて楽しかったので纏めてみた。

 

最後に、1stアルバムのときの魔法少女設定では、廣川は時間をあやつる能力を持っていた。ここまで「時間」について長々と書いてきたのだから、これは興味深いことである。2ndシングルで暇だから過去に行かないかと提案するのも、無論時をあやつれる廣川である。

魔法と言えば、『QUETE POP』コピンク*(feat.廣川奈々聖)で「あぁ、時よ、止まるんだ」と歌っているのも、ああこれが「君だけが遣える魔法」か、と結びつけての感嘆を禁じ得ない。

果たして「もしも君こそ“奇跡”なら」、あるいは「僕らは何百年先も、ずうっと・・・」